横浜の創造都市構造の象徴・BankART1929から学ぶ
渋谷ヒカリエ8/ コミッティ勉強会 2023年1月20日(金)19:00〜20:30
渋谷ヒカリエ「8/」は8/で活動するディアンドデパートメント、コクヨ、アートフロントギャラリー、アンドコー、東急で構成される「8/コミッティ」により共同で運営を行っています。8/コミッティでは、コミッティメンバーが持ち回りで企画し、それぞれが今何に興味を持ち、どのような活動をしているかシェアしながら相互理解を深める勉強会を定期的に開催しています。
今回はBankART1929 (バンカートイチキュウニイキュウ)代表の細淵太麻紀さんをゲストに迎え、BankARTが生まれた背景とこれまでの活動についてお話しいただきました。BankART1929は、横浜市が推進するリーディングプロジェクトです。歴史的建造物、倉庫などを文化芸術に活用しながら、街を再生していく「創造都市構想」をテーマに掲げています。
< Profile >
ゲスト:細淵太麻紀(ほそぶち・たまき)氏
BankART1929代表/アーティスト。
埼玉県川越市生まれ、横浜在住。多摩美術大学にてグラフィックデザインと写真を学んだ後、1996年より美術・建築ユニット「PHスタジオ」に参加し、国内外のギャラリーや美術館での展示、野外プロジェクト、コミッションワーク、建築設計など多数手がける。2004年、横浜市の歴史的建造物等を文化活動に活用するBankART1929の立ち上げに参画し、以降企画運営全般に携わる。2015年頃より個人の作家活動を再開。2017年より出版プロジェクト「現像」を共同主宰。2022年4月より現職。
司会:薮田尚久(やぶた・なおひさ)氏
アートフロントギャラリー所属。
国内外で活躍するアーティストを紹介し、時代の精神性や社会性を映し出す作品を、展覧会やプロジェクトとして展開する。「大地の芸術祭」など、アートによる地域活性化プロジェクトを手がけるほか、2012年より8/運営事務局でフロア運営に関わる。
横浜の歴史とBankART1929誕生まで
細淵太麻紀さん(以下、細淵):今日は「何故BankARTは生まれたか」という話をしたいと思いますが、話の始まりがいきなり大河ドラマみたいなんですけど(笑)。江戸末期、日本が開港するというときに、いきなり江戸、東京だとちょっと危ないということで……東京から離れた横浜が選ばれました。当時の横浜は100戸程の漁村だったんですね。そこが国際的な文化の窓口になり都市として発達しました。その後、関東大震災と第二次世界大戦によって大きく打撃を受けます。横浜の場合はその後に占領もあって、ほかの地方都市よりも復興が遅れたんです。
1963年に社会党政権が生まれて、飛鳥田一雄さんが市長になりました。そのとき田村明さんというアーバンデザイナーの方が参加して、都市の骨格をつくっていきます。国の支援を受けて六大事業が構想されて、みなとみらい造成のため、そのエリアにあった工場や造船所を金沢区に移転したり、港北ニュータウンという新しい住宅地を造ったりしました。高速道路や地下鉄の整備、ベイブリッジもこの構想によって誕生しました。横浜は戦後復興から2000年代にかかるまでの約40年で巨大な都市へと成長して、その過程の中でシティズンプライドも芽生えていきました。現在の人口は370万人を超えています。
六大事業がほとんど出来上がった頃の2002年に、民主党政権と中田宏市長が誕生します。そして、アーバンデザイナーの北沢猛さんが都市デザインに大きく関わることになります。北沢さんは、元々横浜市の都市デザイン室で先ほどお話に登場した田村さんとも仕事をされた方で、当時は東大の教授でした。
この頃、基本的なインフラが完成したところで、旧市街地の地盤沈下や空室率の増加の問題が出てきました。また歴史的な建物を活かしたまちづくりを進めるなかで、民間所有の古い建物が経済優先の論理で壊されていってしまうという問題が起こってきました。そこで、アートを導入して都市をつくっていく「創造都市構想」が生まれました。今となってはよくある話なんですけど、当時はあまりそういう実例はなくて。、特に日本ではあまり用いられることがなかったんです。そのときに横浜市が民間から運営団体を募集して、生まれたのがBankARTです。
BankARTはもともと銀行だった2つの建物の活用から始まりました。旧第一銀行と旧富士銀行の建物です。銀行で文化活動をするので、「Bank+ART」(バンカート)という造語をつくったんです。1929はこの銀行だった2つの建物がともに竣工した年で、その数字を自分たちの組織名につけ「BankART1929」としました。
2004年、組織を立ち上げたときに「駅と交易」という文章を掲げています。駅のように、様々な人や物や情報が行き交い、自由に過ごせる場所でありたい。いいこともあるし、悪いこともあるかもしれないけど、全部抱擁出来るような場所をつくっていきたいと。そんな想いで始まりました。
活動を始めて間もなく移転
細淵:ところが、活動開始して1年も経たずに東京藝術大学の誘致が決まって、旧富士銀行の建物から撤退せざるを得なくなってしまったんです。文句を言って居座ることも出来ましたが、創造都市構想という大きな取り組みの中で東京藝術大学が来るのは悪いことではないので、撤退する代わりに3つの条件を提示しました。タイムラグなく移転出来ること、今活動している場所から徒歩圏内であること、同等の規模の建物を確保すること。そうして次の活動場所になったのが「BankART Studio NYK」でした。
移転先は運河沿いのロケーションがよい所で、日本郵船の元倉庫だった建物です。天井が高くて、アーティストは創作意欲を掻き立てられますね。3階はほぼ倉庫の状態のまま残っていました。2階は船の博物館があった所なので、壁も白く塗装されていて、床もきれいに貼られていたので、空間の差別化が出来ました。 すごくおもしろい建物です。
1階のホールはコンクリートで天井が高く、音が反響してしまう造りだったので、川俣正さんの個展の際に、もともと倉庫だったことから物流に使われる木のパレットを組み上げてインスタレーションをしてもらい、音を吸収するようにしたんです。トークイベント等のときにもいい音の響き方がするように、常設でホールをつくっていただきました。
BankART1929の特徴
細淵:BankARTの事業の特徴をキーワードであげていくと「公設民営の新しい可能性」ということが挙げられます。
BankARTは民間のNPO法人で、横浜市と契約を結んで事業をしています。年間6,000万ほどの補助金をいただいていますが、それだけでは運営していけません。補助金を元にお金を作る仕組みをつくっています。つまり利益を再投下することが許されています。一般的な美術館の自己収入率は10%に満たないですが、BankARTは50%以上あるんです。こういったやり方の施設はとても珍しいです。
また、横浜市とBankART以外に推進委員会というのがあって、この3つの組織が三位一体で活動をしています。問題が起こったときにどうしたらいいか一緒に考えましょう、という関係です。横浜市と運営者であるBankARTの間に推進委員会を挟むことによって、客観的に物事を見られてバランスをとっているのが特徴です。
2つめのキーワードに「街づくりのツール」というのが挙げられます。芸術のための芸術ではなく、街づくりのためのツールとしての文化芸術であること、建物の中で文化活動をすることによって、街のにぎわいをつくるのが目的なんです。ツールである限り、よく切れるハサミでなければいけないというわけで、横浜市はよく切れるハサミを提供してくれました。
一般的な公設の建物は制約が多くて不自由さがあるんですけど、BankARTには民間レベルの自由度があります。3つめのキーワードはこの「自由度」です。
そして「空間と時間のフレキシビリティ」。BankARTは2年という期間付きの実験事業として始まりました。2つの歴史的な建物は、もともと文化芸術の発表のために作られた建物ではないし、借りている場所なので大きな工事が出来ない。 そこで、設備は全て移動式を採用しました。壁も椅子も移動出来るようにキャスターを付けて。建物本体に依存しない、独立した形でつくりました。
そして民間レベルの自由度で、時間的にも建物を使い倒します。特徴的な歴史的建造物は、雑誌やテレビの撮影場所としてのオファーがすごく多かったんです。でも、文化事業が出来なくなると困るので、開館前や閉館後の時間外にやってもらうようにしました。このような営利事業での利用料は展覧会などの文化事業に貸す賃料よりも高く設定して収益を得ています。その収益を文化事業に再投下するんですね。
BankARTの事業
細淵:BankARTの特徴を今度はベースになる事業からあげていきます。BankARTでは「フロント業務」、つまり受付業務を大切にしています。館を広くひらき、リピーターを育て、来館者やユーザーに1対1で対応して画廊並みに芳名をいただくことで、8万件の住所録のデータベースを作成、メールニュースの配信アドレスは2万件に登ります。
「スクール事業」としておこなっている「BankART School」は、現代版の寺子屋で、2ヶ月で8コマが1クールです。単発のイベントだと1回会ってそれっきりになってしまいますが、スクール形式なら学生同士、先生と学生のつながりが密になるメリットがあります。講座の後も併設のパブで飲みながら交流をしたりして、そこから受講生同士でフリーペーパーをつくったり、展覧会をしたり講演をしたり、スクールがきっかけで新しい取り組みが生まれていくことも多くあります。
「カフェ・パブ事業」はこのようにアフタースクールや展示やイベントの合間に利用してもらうことで、人々をつなぐハブの役割をしています。
そのほかに、書籍やCD、DVDを制作して販売する「ショップ・コンテンツ事業」や、アーティストに制作の場所を提供する「スタジオ事業」を行っています。
また、近隣に大規模なシェアスタジオを運営したり、他都市や海外との国際的なネットワークを構築することにも力をいれています。
「コーディネート事業」は収益の大きな割合を占めています。
いわゆる場所の貸し出しですが、単なるレンタルスペースみたいにお金を払ってくれたら何でも使っていいよということではなく、あくまでも「企画」に対して場所を貸してコーディネートしていく仕組みでやっています。また、持ち込まれた企画が優秀な場合はBankARTが費用の減額や広報協力など大きくサポートしたり、ときには企画協力したりして、多くの方々と一緒に仕事をしてきました。
「主催事業」は、横浜のもっている財産をリレーするということを心掛けながら企画しています。また、川俣正、原口典之、柳幸典などの作家による大型個展は、その度ごとに建物や空間のポテンシャルを引き出してくれています。
これからの活動
細淵:横浜での活動は間も無く20年を迎えますが、これまで紆余曲折をへて、現在はみなとみらい線の新高島駅構内にある「BankART Station」と、馬車道駅近くの元生糸検査所のあった場所に立つ複合施設内の「BankART KAIKO」の2つの施設を運営しています。
特に「BankART Station」の周辺の、みなとみらいの街が変わってきている今、周辺の企業とアートを繋ぐ活動に取り組んでいます。新高島駅の地下1階に「BankART Station」があるのですが、ここは、みなとみらいエリアにある3つの大きな歩行者軸のひとつ、キング軸のちょうど真ん中に位置しています。みなとみらいでもこのエリアはまだ空き地が多く残っていたエリアですが、2020年頃から企業誘致や土地の開発が大きく進行していきました。
この秋は、このキング軸にアートテーブルを置く試みに挑戦しました。
アーティストや建築家がつくったテーブルを道路の上に置くことによって、企業、就業者、来街者、住民などとの関係性をつくっていく出発点にする狙いがありました。テーブルを置く土地は、所有者や条例などの許認可のシステムが複雑で、テーブルひとつ置くだけでも許可をとるのが大変。でも、この取り組みをやっていくうちにだんだん仲良くなり、「じゃあ、今後はBankARTが企業側のイベントに参加してくれませんか?」と、そんな話につながっていくんです。
参加者との質疑応答
質問者1:様々なユーザーの声を聞きながら事業展開していくのは、よくある話ではあるけど成功事例が少ないように感じます。上手くいく秘訣は何でしょうか?
細淵:自分たちが楽しいと思ったり、必要性があると思えることじゃないと、活動を続けるのは難しいと思うんですよ。自分たちも1ユーザーとして、その場所が好きな人として関わっています。みんなの意見を聞いて、みんながやってほしいと思うことをする、というモチベーションではやらないんです。「いい場所があるのに何でみんな知らないんだろう?教えてあげよう!」みたいなスタンスで、自分たちも必要だと思えることをしている。ユーザーの参加の仕方も多種多様に取り入れて、工夫しながらやっています。
質問者2:アーティストの方はなぜ活動場所に横浜を選ぶのでしょうか?アーティストを惹きつけるポイントが知りたいです。
細淵:さまざまな活動のおかげで、現在の横浜の関内地区にはアーティストのスタジオや建築家の事務所がたくさんあります。共同でオープンスタジオや事務所を同時に開いたり、街中でイベントを開催したりしているんですね。そしてそこで生まれた関係が、また別な仕事のコラボレーションを生んだりする。同じような活動をしている人が同じ街にいることは、もの作りをする人にとっても刺激的で、魅力的なんだと思います。
質問者3:街にアートがあると良い、という風潮がありますが実際のところはどうでしょうか。アートは街でどのような役割がありますか?
細淵:社会課題を解決するためにアートを導入するという言い方がよくありますけど、私はそれは違うと思っていて。アーティストの役割って社会課題を浮き彫りにすることだと思うんですよ。ここをみんな見て!と言う係だと思うんですよね。
アート自体が問題を解決するというより、みんなが見えていないものを提起していく役割がアートにはあるんだと思います。
勉強会を終えて
細淵さんのお話を聞いて、もう事業が始まって20年も経過したんだ、という感慨と一緒に、当初と変わらない密度とクオリティに圧倒されました。それを許容してきた横浜市役所もすごいですが、やはりBankARTの「自主」の精神が、数多の文化施設との圧倒的な差を生んでいることがよく理解できました。渋谷に関わる私たち8/も、負けずに頑張っていきたいと思います。(薮田)